歴史の中では歌人の方も苦労されたようですが、ご紹介します。

実は歴史の中にもありました。

鎌倉時代、歌人の相続

藤原の為家(1198~1275)は藤原定家の子で、鎌倉時代中期の公家、歌人と知られ、権大納言に昇り、1256年に出家しました。続後撰和歌集や、続古今和歌集通じ、歌人としても有名です。

為家の子に、冷泉家初代の為相(1263~1328)がおりますが、最初、阿仏尼との間に為氏(1222~1286)に荘園、典籍を譲ったものの、その後、為相に譲り直した事から、為相と為氏・阿仏尼との間で問題が発生しました。
つまり、為相によって確立された冷泉家でも問題は起こっていたわけです。

ここでのポイントは、「為相へ譲り直した事から・・・」です。
これは、当時の「遺言書」に依ったものとされます。
当時の遺言書は「文券」と言われています。証券の「券」と同じ感じかもしれません。

この問題の結果、二条家、京極家、冷泉家の三つ分かれるのですが、どれだけ為家、さらには藤原定家の権威が大きかったを感じる次第です。

阿仏尼の功績

問題といっても、二条家、京極家、冷泉家と分かれた訳ですが、その結果、冷泉家が残り、定家の貴重な資料が残った事は、「良かった」とも言えます。

問題は、どちらかと言えば、否定的なイメージがあるのは、一般に棚ぼた的に見える財産をなんの努力もせずに受ける事への浅ましさ・・嫉妬もありますが・・そういった点ではないでしょうか。

ここで登場する阿仏尼は、京都で話しがつかないので、鎌倉幕府まで訴えに行ったわけですが、このバイタリティーが無ければある意味、定家は守れなかったのです。

実は、やまとうたblogの作者に先日、鎌倉を案内して戴いた際に阿仏尼の墓の前を通り、聞きかじりました。

阿仏尼の詳しい話は、やまとうたblog阿仏尼 あぶつに 生年未詳~弘安六(?-1283) 別称:安嘉門院四条ほかをご覧ください。

この記事に関連するページ

「もめる」ようになったきっかけ

では、もめ事はいつから始まったのでしょうか?

個人的には、奈良時代(743年)に「墾田永年私財法」によって「開墾した土地の永続的な私有」が認められた事が始まったと考えます。

ただし、これは当時の権力者にとっての話であり、つまりは「荘園」と呼ばれるもので、今後の歴史の中で問題となる土地争いとなるわけです。

庶民から見れば、支配と被支配の関係ですから、あまり関係は無かったかもしれません。

家督相続はいつから?

遺産相続・・といえば、今では、法定で、相続人の権利が定められていますが、その前は家督相続で、解りやすく言えば、長男が相続し、二男、三男は、家を出る、或いは他家へ養子へ出るなどが行われました。

権利の云々・・という話を別にして、単純に問題の対策・・・とは家督相続という事になるかもしれません。 歴史の残る相続でもめた話は、鎌倉時代ですが、家督相続は江戸時代から始まったとされています。

士農工商という身分制の中では、同じ兄弟でありながら、相続で優劣がつく事は、案外、理解しやすかったのかもしれません。

ところで、本当の対策はあるのか?

鎌倉時代において、「文券」=「遺言書」がその対策として、存在した事は、歴史からも解ります。しかし結果的には、対策とは、なりませんでした。

もちろん、遺言書は対策の基本です。それは、間違いありませんし、実際にその効果は、仕事を通じて実感しています。

ところで、問題の発生については「予想」が出来ます。

中には、全く問題の無い方もいます。わかりやすく言えば、天涯孤独で、親も子供も誰も居ない・・・場合は、その方の財産は国庫に入りますから、もめようがありません。

あくまで、大まかな分類となりますが、問題チェックなどで確認してみてください。

先ずは、ご自身に問題が起こる可能性あるか、どうか見て、可能性があれば、可能な限り低減する対策を行う事になると思います。

ただし、「もめる対策」と「税対策」とは、一致しませんから、その兼ね合いも大きな問題となります。税対策が将来の相続問題(税制の変化、評価の下落など)となる事例は数多く見てきましたので、どちらを優先するかも考え、対策する事が大切です。

この記事に関連するページ